皆様こんにちは。
お天気の良い日が続き、毎日外の空気を吸いに出るのが楽しみなこの頃です。
最近の夕陽の美しさと言ったら、、、写真を撮ると、iPhoneでもまるで絵に描いたような風景が写りました。
このような風景、空をみていると、作曲家たちはどのような景色を見ていたのだろうかと、思いを馳せてしまいます。
今回は、音楽作品には決して欠かすことの出来ない、“神様”について、考えたいと思います。
音楽作品の源でもある作曲家たちの信仰心を知ると、音楽をより深く、味わうことが出来るかもしれません。
ヨーロッパにおける神様というと、宗派は様々ですが、キリスト教が一番多数を占めています。
よく間違えられている話ですが、“イエス・キリスト”というのは、神様の息子であり、神様は、イエス様とは違う存在です。聖書などでも、Godや、Fatherと書かれています。
マリア様というのが、イエス・キリストのお母様に当られる方です。
神様のお姿は一度も聖書のなかで現れることはありませんが、人間が祈ることにより、その人と神様の繋がりが出来るとされています。
そんな神様と音楽についての関係ですが、聖書の世界でも楽器は登場し、音楽が、人と神様を繋ぐ信仰心の結晶であることが分かります。
つまり、音楽は“神様への祈り”なのです。
その証拠に、音楽修辞学という学問がありますが、(どんどん難しい話になってきました、、、)
この音楽修辞学とは、音楽の中に登場する音形が様々な意味を持ち、表していることになります。
つい昨日、友人の瀧井レオナルドさんのリュートリサイタルへご招待頂き、イギリスの作曲家ジョン・ダウランドの作品をたっぷりと堪能してきましたが、
リサイタルの最後の曲は、曲全体が半音階進行で占めている、とても斬新な作品でした。
この作品を何も知らずに聞いても素晴らしい作品だなあと思うのですが、
音楽修辞学でいう半音階進行は、イエスキリストが十字架を背負い丘を登るという意味になるのです。
ですので、演奏者はこの半音階を演奏するとき、決して楽々進むのではなく、一歩一歩、歩みを進めるように演奏しましょう、ということになります。
ジョン・ダウランドが音楽の中に込めた、神様に対する美しい祈りのひとつなのです。
このような音楽修辞学をひとつでも知っていると、音楽を聴く耳が少し変わってくるのではないでしょうか。
作曲家によりけりかもしれませんが、音楽修辞学は第二次世界大戦まで受け継がれていたみたいなので、皆さんご存知の有名な作品たちも、神様への祈りが描かれているかもしれません。
神様がなされることは人間にはできません。逆に、人間にできないことを神様がなされる、ことになりますが、音楽が人に与える癒しとは、神様の御力の片鱗とも思えたら、素敵ではないでしょうか。
それでは今回はこのあたりで、、、。
明日はいよいよオンライン収穫祭です!
どのような配信になるのか、私たちもどきどきです。
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